「しばられるな」について少し考えたこと

コーヒー

どうも、こんにちは。本日もこちらにお越しいただきまして誠にありがとうございます。
またまた適当な感じをブログにしちゃいました。最近というか以前から、何事も「しばられるな」というテーマがあって、これってどういうことなのか、そんなところを少し考えてみました。

しばられる

若い時というか、色んなことに疑問をもっていた頃、まぁ、当然に今も似たような時もありますが「常識を疑え」とか「何事にもしばられるな」という表現が頭にちらついて、それを超えることが何かとてつもない意味があると感じる時期がありました。


たぶん、この感性は間違っていない様に思います。誰でも一回は通る慣例かもしれません。そして、ずっと持ち続けた方が良い気持ちなのかもと個人的な経験を基に思います。ただ、一片的な側面でなくて、もう少し余裕をもって「しばられてもいいんだ」という考えもありだろうと思うのです。

僕的な私見ですけどね、物事には表と裏の双方があって、時より片方だけが注目されがちですけどね、陽の目に見ない方も考慮した方がなんかいいんじゃないかと思うんです。もしかしたらバランスの問題かもしれません。だから、「しばられるな」と「しばられる」があると思います。

しばられるな

そんな状態で「しばられるな」を考えますと、物事にとらわれない考えは大切なのだろうと想像します。はっきり言えないのは、「しばられる」という考えにも大切はあると思うからです。ですから、言い換えると、時として物事にとらわれない考えは大切だと思います。

まるで言葉遊びになってしまいますけどね、「しばられるな」に生き急いで、結局「しばられる」ということも考えられます。これは、常識を疑い過ぎて詰まるところ、たんなる屁理屈になってしまうのと似ているのかもしれません。言葉に踊らされてそれに「しばられる」ことは自分を見失ってしまう入り口かなぁと思ったりします。

「轍」という言葉もありますよね、人の通っていない道に道を作る、それが美しいように描かれたりします。これもありだと思うし、美談になる要素は多々あって自分もできることならば、そのような伝説みたいなものを作りたいと思っています。

どうすれば

こういった事を考え出すと、ではどうしたらよいのか?たぶんですが、そんなことに陥りますよね。実は僕もこの結論に至っていない、それが正直な感想です。ただ、色んな人を見て、恐らくこんな感じだろうという結論みたいなものを感じています。

端的に言うと、良く知られているフレーズを借りると「何でもかんでも思い通りにいかい」ということになりますが、人には何かのタイミングがあるように思います。それまでいわゆる「待ちの時期」或は「高くジャンプするために助走」そんなことのように思います。

そして、僕はそんなリズムの壮大な実験中なのだと考えています。実験には失敗もあり成功もありますが、一つ一つクリアしていく、そんな感じです。或は、俗に言われることですが「今の自分を大切に生きる」それが肝要なのだろうと、実験中の最中に考えています。笑。

本日はそんな感じです。ここまでお読みいただきまして誠にありがとうございます。年始のお休みが終わり仕事が始まりましたね。また修行の日々です。

ではでは。ステキな1日をお過ごしくださいね。

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