頑張れソングは僕に必要だったのか

西新宿

どうも、こんにちは。本日もこちらにお越しいただきまして誠にありがとうございます。
またまた適当な感じをブログにしちゃいました。たまになんですが、頑張れソングって必要だったのかを考えます。いまのところの考えを書き留めています。

僕にとっての頑張れソング

僕は歌が好きです。歌うのも聴くのも好きですね。音楽って素晴らしいと思うし、それを表現できるアーティストの方には憧れさえあります。まぁ、色んな曲がありますが、今回は特に頑張れソングについて、僕の思っていることを簡単にですが、書き留めたいと思いました。だって、かっこよくいうと僕の黒?白?歴史にとって、今、そんな時期だからです。


恋愛とか生き方とか、頑張れとか色々と歌の中で語られている、それを聴くと自分も感化されて色々な思いがこみあげきて、元気がでたりします。そう、僕は元気が出る曲が好きなんです。そんななかでもよく聴くのが、自分に対してのメッセージ的な頑張れソングです。笑。

この頑張れソングにどれだけ励まされてきたか!感謝しかないかもしれません。だから、数々の頑張れソングに対して、足を向けて寝ることはできません。落ち込んだ時にお決まりのそれを聴きますと自分が復活する。いわば、復活の呪文なんだ。それが頑張れソングの存在です。僕にとって。

必要だっと思う

頑張れソングは必要です。これが今のところの僕の結論です。ただ、必要以上の頑張れソングは必要がないのでは?これも僕の結論です。世の中に頑張れソングが多すぎするから。もうね。これらを聴くたびに思う。頑張り過ぎると疲れてしまう。だから、必要以上の頑張れソングは必要がない、と。

冷静に間を置くと、僕が歳を重ねたから?必要以上の頑張れソングは必要ない、と思っているのかもしれない。頑張れソングが必要な年齢があるのかも。大人になると手を抜くことを覚えてしまう、全てに頑張らなくていいのだ、そう勝手に理解してしてしまうのかも。或いは、ガムシャラに頑張るよりも冷静に理論を通すのが良い場合もあると判断できるのかもしれない。

だから、悟り的なソングを聴くようになる、クラシック的?或いはもっと濃い恋愛的なソングを聴きたくなったりする。頑張れソングがウザくなってしまう。ただ、忘れてはいけない。頑張れソングは心の軸になっている、それが少し飽きたから他の味も知りたいだけなんだと。

いま必要なのか

武田鉄矢氏がとある番組で言っていた。現代は自分中心ばかりの歌が多い、と。これには同意する。昔はもっと別の種類のソングがあっただろう、と想像する。もし僕が、例えばだけど、極端な例として「巨人の星」のあの根性ソングを知らなかったら、僕に根性は根付いたのか。最近は、根性ソングを聴いていないので、それから解放されている気がするけど。

家族ソングをもっと聴いていたら、別の家族像が僕の中で形成されていたかもしれない。歌というもはとても生活に密着している。僕の中に、少なくとも光GENJIの「ガラスの十代」がDNAとして刻まれているのは否定できないからだ。

今、僕にとって必要なソングは、いわば「ゆとりソング」だ。ぶっちゃけ、ゆとりという表現を含めてその意味をバカにできないと個人的に思っている。個人のアーティスト性を開花させるには必要なモナトリアムであると考えているから。ただ、色んな意味でかつて政策は誤っていた気がするけど。

ある意味、僕は例外になるかもしれないけど、ある種の大人の判断が出来る人が「ゆとりソング」を聴くことによって、newになれるとおもう。あ、これは個人的に。たぶん、これからの世の中に必要なのは、自分にしかないDNAを表現できる人が、つまらない表現だけど、生き残れる社会になっていくと思うと感じているんです。笑。まぁ、適当ですけどね。

本日はそんな感じです。ここまでお読みいただきまして誠にありがとうございます。週末ですね。お仕事頑張っていこうと思います。

ではでは。皆様もステキな1日をお過ごしくださいね。

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